【ディズニー映画 感想】ノートルダムの鐘 ~童貞作品としての考察~

2021年1月21日木曜日

【ディズニー作品】【感想】

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今日は『ノートルダムの鐘』(原題:The Hunchback of Notre Dame)の感想を書きます。
原題を直訳するとノートルダムのせむし男ですが、
せむしという表現が差別用語に該当するということで日本のみ『ノートルダムの鐘』というタイトルに改題されております。
原作はヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』という小説です。
ヴィクトル・ユーゴー自体は『レ・ミゼラブル』の著者として有名です。
本作はディズニー映画史において、もっとも暗いテーマを扱っているといわれており、
そういった点でディズニー映画好きの間で有名な作品ではないでしょうか。



僕は小学生の頃に母親と鑑賞しているのですが、全く内容が頭に入ってこず
なんだかよく分からないという感想でした。
母親がラストシーンで号泣しているのも意味が分からず、
その時以来全く見ていませんでした。
ですが今回久しぶりに鑑賞したところ、母親と同じようにラストシーンで号泣してしまい、自分が大人になったということを自覚いたしました。


他のディズニー映画の感想が気になる方はこちら。



さて、まずはあらすじをまとめると以下のようになるかと思います。

舞台は15世紀のパリ。
ジプシーを害悪として目の敵にする判事フロローは、とある雪の日に赤子を抱いたジプシーを殺害する。
母親から奪い取った赤子の顔を見るとあまりに醜いことに気づき、井戸へ放り投げようとする。
その時、ノートルダム寺院の司祭から、神が見ている、赤子を育てなければ神に裁かれるという忠告を受け、それを恐れたフロローは、その赤子を「出来損ない」の意味を持つカジモドと名付け、ノートルダム寺院の鐘付きとして育てることを選択する。
時が経ち青年になったカジモドは今日も孤独に鐘を突く。いつか外に出て自由に暮らす夢を見ながら・・・。


では、感想を書いていきます。
今日はこんなテーマで感想を書いていきたいと思います。

ノートルダムの鐘を童貞作品として考察してみる


はい。
ふざけてはいません。
まずは前置きを書いてゆきます。


というわけで、『ノートルダムの鐘』ですが、
前作のポカホンタス以上に、作風を更に大人向けに舵切った挑戦的な作品だと思います。

観る側の立場としては、この手の難解そうな映画というのは
どんな映画だったのか?という問いに対しての言語化が難しく、
「考えさせられる」とか「深い」とか、
言葉とは裏腹に「何も考えてなさそう」で「浅い」説明に陥りがちです。

僕はこういう時、一旦、頭をバカにして思いついた言葉を口にします。

なので、仮に友達に『ノートルダムの鐘』がどんな映画だったか聞かれた場合を想定して、
僕なりに一旦頭をバカにして思いついた言葉で表現させて頂きますと
こんな感じになりました。

童貞が思わせぶりの女と出会ってヤレるかもと浮かれちゃうけど結局イケメンに奪われてヤレない悲しい話

です。
はい。
ふざけてはいません。

僕はジャンルとしての「童貞」ってあると思っています。

個人的には「童貞」というジャンルでいうと『アイアムアヒーロー』で有名な花沢健吾の『ボーイズ・オン・ザ・ラン』という漫画が好きです。

この漫画は、ザックリとあらすじを説明すると
"冴えない男が性格の良い女性と付き合う寸前のところで
イケメンで性格の悪い男に奪われてしまう"という話です。

ボーイズ・オン・ザ・ランの一場面。
童貞漫画の金字塔。かも?


要は、何が言いたいかというと「童貞」というジャンルは存在していて、
ノートルダムの鐘もそのジャンルに位置する作品だということです。

なので「童貞」というジャンルにおける作品として、
ノートルダムの鐘がどうだったのか?という話をしたいと思います。

先ず、僕が思うに、「童貞」というジャンルに属する作品は、
童貞が抱える痛さ、切なさ、辛さというものを正面から描いてこそ、
最後それらが何かで報われたときに物凄いカタルシスが押し寄せるという構造だと思っています。

そういった意味で、この映画はとてもよく出来ていると思います。

どういうことか?ということで本作が如何に童貞的な痛さ、切なさ、辛さが描かれていたかということを書き連ねていきたいと思います。


エスメラルダの思わせぶりがえげつない


本作のヒロインであるエスメラルダですが、
登場する男性キャラを一人残らず惚れさせる男たらしっぷりを炸裂させます。
こんな女は近づいてはいけません。
童貞が初めて身近に接する女性としては最悪レベルの女性だったと思います。

本作で我々が一番学ぶべきことは
手相占いをするとか言いだして人の手相を指でなぞってくる様な女は絶対に好きになってはいけません。

この手の女性のタチの悪いところは本人にその気が無いのに惚れさせてしまう点です。
カジモドのような純粋な童貞は一たまりもありません。
マジでこんなことはもう二度としてほしくないです。

こいつは危ない

僕がもし今後エスメラルダと飲みに行くことがあったら

「お前は悪くないし、俺はカジモドじゃないし、
ていうか俺、全然当事者でもなんでもないんだけど、
とりあえず一回だけ手相の件は謝ってくんない?!」って言うと思います。


育ての親がもっと童貞こじらせてる


本作の悪役でもあるフロローもエスメラルダにまんまと惚れるわけですが、
彼は童貞こじらせすぎて自分のものにならないなら殺すとか言い出します。
さっきまでエスメラルダの悪女っぷりにイライラしていた流石の僕もこれにはドン引きしました。

エスメラルダに惚れる童貞フロロー

てか、こんな奴に育てられて、むしろよくあんな良い奴に育ったなカジモド。


ガーゴイル達の励ましが無責任すぎる


カジモドの唯一と言っていいノートルダム寺院での話し相手であるガーゴイル達ですが、
こいつらがずっと無責任にカジモドを励まし続けます。
象徴的なのは劇中歌としてガーゴイル達が歌う『ガイ・ライク・ユー』です。

例の手相のくだりとかがあった直後の惚気まくりなカジモドに対して
エスメラルダが捕まったかもしれないというのに
「彼女は君を求めてる」とか「お前は特別な男だ」とかいい加減なこと歌って
更にカジモドをその気にさせます。

左からヴィクトル、ユーゴー、ラヴァーン

ただ、このガーゴイル達って、カジモドの妄想が生み出している存在なんじゃないかなと思うんです。

この説を唱える人は他にもいまして、オタク界のキング、オタキングで有名な岡田斗司夫氏の本作の解説においてもそのように語られておりました。僕もそれに賛同します。

彼らはカジモド以外のキャラが彼らの前に登場すると石像に戻るという仕組みになっているのですが、
これは何故なのか?と考えると、カジモド自身の心の声であり、カジモドが生み出した架空の話し相手だから、という説明が一番僕の中では腑に落ちる。
だからこそこんな無責任なことが歌えるわけです。
実際はただただノロけたカジモドの心の声だから。

口ではネガティブなことを言って防衛線を張りつつ、
実は誰かに背中を押してほしい。
誰かに背中を押してもらうことで、行動の言い訳を作りたい。

如何にも童貞らしい情けない考え方です。

でもカジモドには背中を押してくれる存在がいないから、自分自身で生み出すしかない。
その結果、生み出されたのがあのガーゴイル達だということです。

この説の真偽はともかくとして、そういう設定のほうが自分にはしっくり来ます。

そう思って最初から見直すと更に切ない話になるわけですが、、
ただ、世の中の童貞且つ社会から断絶された人間ってのは結局自分以外に話し相手がいないので架空の話し相手を生み出すということはよくある気がします。

またまた花沢健吾の作品を例に挙げますが、『アイアムアヒーロー』では
主人公の心の声役として矢島というキャラが登場します。
こいつは現実には存在せず
主人公が生み出した架空の存在であり、独り言の話し相手となっています。



それと、やや別件ですが『ガイ・ライク・ユー』で散々浮かれたカジモドを我々に見せておいて、その直後にエスメラルダとフィーバスがカジモドの目の前でキスをする場面に繋げているあたり、ディズニーも確信犯的に童貞の物語を作ったんじゃないかと僕は思ってます。



フィーバスが良い奴すぎる


これが、本作の一番救いのない部分だと思います。

お前は嫌な奴でいてくれよ!

っていう。

『ボーイズ・オン・ザ・ラン』との大きな違いは、
主人公が惚れてる女を奪う男が良い奴なのか、いやな奴なのか、という点です。

フィーバスが嫌な奴だった場合、
「うん、エスメラルダの見る目が無かったわ、こいつただの面食い女だわ。」
チャンチャン♪

で童貞たちの溜飲が下がるわけですが、
フィーバスはとことん良い奴なんです。

福山雅治が深夜ラジオで下ネタ言いまくってるのを知った時と同じ感覚に陥ります。

いや、お前にそれやられたら、俺らどこで勝てばいいの?

っていう。
これは、中々に敗北を認めざるを得ないので、童貞の立場からすると非常につらい、救いのない作りになっています。

恋敵としてはあまりにチートなフィーバス

あと、嫌だったのは奇跡の法廷でフィーバスとカジモドがエスメラルダを救いに行く場面。
フィーバスは、エスメラルダが真っ先に自分に抱き着いてきたときに、
カジモドに気を遣って「カジモドが頑張った」みたいなことを言うのですが
こういうのはマジでカジモドの立場だと居心地悪くなるから辞めてくれって思います。

イケメンってそういうとこあんだよな!


童貞映画としての本作のカタルシス


ということでそろそろまとめに入ります。

エスメラルダ争奪戦は何の意外性もなく、フィーバスが勝利を収めます。
フロローは死んで脱落、カジモドは彼らが付き合うことを受け入れます。

終盤、命がけで守ったエスメラルダとフィーバスの二人の手を取り合って握らせるカジモドの心境ってどんな?って思いました。
これが描けるディズニーのアニメーター達は最早、悟りの境地でしょうか。
諸行無常でしょうか。

ということでカジモドの恋は報われませんでした。

本作が如何に童貞の痛さ、切なさ、辛さを真正面から描いてきたかについては
この展開を通して、分かったとして、では本作のカタルシスはどこにあるのでしょうか。

それはズバリ、カジモドがノートルダム寺院から旅立つことを決意することです。

つまり、自分にとって都合の良いことしか言わないガーゴイル(自分自身の弱さ、甘え)との日々に別れを告げ、
自分をあざ笑い、時にはトマトを投げつけてくるような
これまで断絶してきた世の中と向き合うことを決意するのです

醜く生まれ、初めて好きになった人との愛は報われず、
育ての親には裏切られ、
絶望の淵に立たされてもおかしくないなかで
それでも前を向き、恐る恐る外に出た時、
自ら歩み寄ってきてくれる少女の存在を知ります。

そして思わず彼女の手に自身の手を添えるカジモド。

不公平で不条理で、傷つくことも沢山あるこんな世の中に見つけた小さな、わずかな希望として差し出された手に触れ、
それでもこんな世の中も捨てたもんじゃない。
そういう思いがこみ上げてくるラストシーンは個人的には号泣必至でした。




カジモドが童貞を卒業するのはまだ先になりそうだけど、少なくとも童貞マインドは
卒業できそうな予感と共に、物語がThe Endを迎えます。

見事なカタルシスで、

僕もパリに出向いてカジモドを抱きしめてあげたくなりました。

そして二人で居酒屋でやけ酒して、二次会でカラオケオールして、槇原敬之の「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」を歌い、そのまま明け方の松屋で牛丼食って、朝焼け見ながらチャリで2ケツで一緒に帰って家まで送って別れ際に「次の女見つけようぜ!」って言って、翌日からも何も変わらない日常を過ごしたいです。

ということで童貞映画としての『ノートルダムの鐘』、
100点満点の童貞映画だったのではないでしょうか。

カジモド、また朝まで飲み明かそう!

それでは最後に一曲。
本作と言ったら何といっても壮大なオープニング。
全編通して閲覧できる動画が見当たらなかったので
フロローが司祭から赤子を育てるように言われる場面から。


そして次回はこの作品です!




以上終了また次回。

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